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ジャングルと海 Jungle and Sea 〜2001タイ採集紀行〜
文と絵:大内正伸 Masanobu Ohuchi



6日目「ドリアンの切り株」
A stump of durian


ジャングルの民家

 朝,現地人がコーカサスオオカブトを採ったというダム近くのジャングルに移動する。ゴルフさんは3日目の朝に仕事で帰ったので,ラーチンさんさんとチャラン先生がピックアップトラックと運転手をチャーターしてくれた。荷物は全部そちらに積み,しっかり幌をかける。初日の雨では,車の上に積んだ旅行カバンは中まで濡れてしまったからだ。湿度も高くて,ここでは洗濯物はなかなか乾かない。

 車は再び国道に降りて,町中を抜け,再び山の中に入っていく。

 渡る橋の上から,日本の渓流そっくりの川が見えた。車を降り,かっきり2時間の採集時間を約束して,われわれ4人は林道を歩き始める。

 その渓流に沿って田舎の小道が伸びて,小さな畑や果樹の植わった平坦地の向こうは,両岸とも圧倒的なジャングルだ。渓流の上をミドリカワトンボが飛ぶ。後ろ羽にエメラルドグリーンの金属光沢を持つ亜熱帯を代表する美しいトンボである。朝日の中で飛翔する輝きは幻夢のような光景だ。

 途中の民家の庭先で,ネットをかざしたケンが夢中になって走り回っている。獲物は日本のカナブンほどの大きさのある ゾウムシだった。腕が長く,つやのある茶色の胴が南国的だ。ココヤシに依存するゾウムシだという。ホウセンカに似た花に セセリチョウが来ていた。最初の頃はどうしてもアゲハ類の大形種に目が行ったが,そろそろ余裕が生まれて,地味なセセリなどにも注意するようになる。しかし朝早すぎていまいちチョウの飛びが少ない。オレもトンボを追いかけ,ミドリカワトンボとエゾトンボの仲間を採ったりした。

 ぽつぽつと民家が現れる。現地の人にも出会う。タイでの挨拶は両手で合掌しながら「サワディー・クラップ」と言葉を交わすのが習わしだ。オレもそれを真似,ついでに「この竿と網でチョウを採っているのだ」とジェスチャーする。ヤシの木の並木を女の子たちが通る。タイの子供たちは美しい無垢な顔をしている。時間があればぜひともスケッチしたかったが,写真をとらせてもらって我慢する。「ありがとう」は,やはり合掌しながら「コップクン・クラップ」だ。ちなみに語尾の「クラップ」というのは一種の丁寧語で,女性は「カー」とつける。

 周囲の果樹園や畑はよく手入れされていて,昔の日本の山村の暮らしそのものだ。間伐したドリアンの木が横たわっており,切り口に美しいゾウムシとカミキリムシを見つけて,これは友人のお土産に持ち帰ることにする。出発前に『D新聞』のデーターを届けに行ったら,旧友の虫仲間のK部長につかまって「お土産に甲虫よろしく!」と毒瓶を渡されてしまったのである。

 ドリアンの切株は明らかにチェーンソーのものではなく,手ノコで切断したような切り口だった。後でチャラン先生に確認すると,タイではチェーンソーの使用を厳重に制限しており,1台1台すべて登録ナンバーがふってあるという。もちろん森林保護の観点からだが,おかげでヤミ市場にチェーンソーが出回っているとのことだ。

 チョウが飛び始めた。ブルーの輝きをちりばめたナガサキアゲハ,ゼフィルスに似たシジミチョウ,いく種類かのタテハ類を採っているうちに雨がやってくる。傘をさしながら林道を戻る。(もうここには生涯ふたたび来ることはあるまい)そんな感慨に打たれながら。民家と人々の佇まいを,目に焼きつけながら……。

         
 


コテージから海へ

 新しいコテージに向かう道すがら,またしても土砂降りの雨に見舞われる。ラーチンさんの車とピックアップトラックは何度か互いを見失い,携帯電話で位置を確認しあいながら雨の中を疾走する。途中の農地は氾濫で泥の海と化しているところがあって,川も橋すれすれまで水が増えているところもある。

 それにしてもタイの人たちは,この土砂降りの中でびしょぬれのままバイクを走らせたり,荷台に人を乗せたまま走っている車もあって,雨に濡れる感覚がわれわれとは全然違う。それでも道々に建つあずまやで雨宿りしていたり,町中では傘をさしながらバイクを運転しているオバチャンもいたりする(これはこれで日本では見られぬ光景だが)。タッちゃんはピックアップの方に乗っていて,「解説」が聴けないのが残念だ。

 ゴム園の道に入り,コテージの場所を確認にチャラン先生が現地の作業員と話を交わす間,オレは車を降りて,ゴムの木(英語ではラバーツリーという)を観察しに行った。樹皮の部分に傷がつけられており,細い金属製のガイドを通してカップに受けられたゴムの原料は,ヒゲ剃りに使う白いシェービングクリームのような感じだ。胸高直径15cmくらい木だったが,これが樹齢なんと3年(!)であるという。驚くべき成長の早さだ。日本の成長が早いとされるスギでさえ,ここまでには最低10年はかかる。ただし連作障害を避けるため,老齢木の伐採後はマメ科の植物を植えたり,若干の肥料を与えたりするというから,これはもう畑の感覚である。道々に牧場やドリアンの果樹園も見えてくる。ドリアンの木は枯れていたのもあったが,これは土壌伝染性の病害とのことで,ドリアンも様々な品種改良が成され,果樹の宿命として病害との戦いもあるようだ。

 その枯れたドリアンの木の向こうに真新しいコテージが見えた。洋風リゾート建築のピカピカの建物で,採集で汗と泥にまみれたわれわれにはあまりに場違いな建物の出現に,
「げっ,すげえ……」だとか,
「ほんとかよ,おい」などと声を漏らす。

 われわれはなによりも宿泊代の方を心配し始めたが,チャラン先生の勤めるカセサート大学の生協関係の保養地とのことで,廉価で1棟を借りられたのであった。しかし,こことて原生林は見られぬものの,周りは自然に囲まれており,駐車場の花にはナガサキアゲハやタテハ類が飛んでいたし,夜はヤモリやトッケイがやってくるし,朝方には大量のアリが靴に群がっていたりした。

 荷物を下ろし,部屋割を決めたのち,昼食はピックアップの荷台に乗り込んで海岸に向かうことになった。トラックの荷台に乗って道を走るのが違法の日本では,めったにできない体験にオレは大喜びだ。しかし100kmで飛ばす車の荷台に乗ると,息がつけなかったり,メガネが飛ばされそうになることがわかった。三角缶をベルトにつけたまま乗っていたタッちゃんは,途中でその蓋が開いてしまい,あわや三角紙が花吹雪のように舞うか,という一幕もあったが,後ろにいたオレが発見してくい止めた。

 来たときに入ったのと同じ,ラヨーンの海岸沿いのレストランに到着。雨があがってよい天気となったので,屋根のないデッキで海を眺めながらの食事である。メニューは魚のトムヤム,カニの焼飯、カニのカレー,シイラの干物の空揚げ(タイでは干物を油で調理することが多いようだ)など。カニのカレーが旨い。ビールを飲みながら満腹。シイラの干物は途中で少年が売りに来たものをチャラン先生が店の人に料理させたものだ。ここでは店とは関係ない商売人がテーブルにやってきて,食べているお客の袖を引っ張って物を売りにきたり,宝くじの売り子もやってきたりする。

 来たときとちがって海は美しく澄み渡っており,網で何か採っている人がいる。チャラン先生が「シュリンプペーストの原料になる小エビを採っているのだ。せっかくだから,見てくれば?」というので海岸を歩いて波打ち際まで行ってみる。細かい網でサクラエビに似た4cmくらいの小エビがたらいいっぱいに採れていた。砂には小さなカニの幼生がびっしりと穴だらけにして,砂団子をつくりながら餌を食べている。豊かな海を実感する光景だ。


熱狂のラヨーン・マーケット

 こんな話をチャラン先生に聞いた。チャンタブリはタイでも降雨量の多い地域で,今回の程度の洪水は5年周期でやってくるという。ところがこの洪水は原生林の腐葉土を農地に運び,農作物に豊かな実りを与える。つまり,洪水は決して悪ではない。この腐葉土は海にも流れ,沿岸に小魚や小エビの餌である良質のプランクトンを大量に発生させる。ところがダムで洪水調節した地域は,この肥料補給を失うため,化学肥料に頼り始めるという。

 もちろん沿岸漁業にも影響を与えることであろう。この観点からいけば,われわれ日本人は,人工林の手入れ不足で森林土壌を疲弊させ,かつダムに土砂を溜め込むという二重の過ちを犯していることになる。チャラン先生は微生物学の権威でもあるが,徹底してフィールドワークを重視する異色の先生だ,とケンが話していた。

 午後は二手に分かれ,タッちゃん,S氏,Tさんの三人はコテージ回りの野池や牧草地で採集。オレとケンはチャラン先生とレストランのデッキに残ってぐだぐだとビール。つかの間の休息である。ところが,コテージに向かったラーチンさんは部屋の鍵をチャラン先生に預けたまま出発してしまった。なんとか金物を使ってドアをこじ開けたというのだが,このときラーチンさんはトイレに行きたくなりウンコが漏れそうになっていたというのだ。

 戻ってきた後でその一部始終を,足をもじもじさせたりしてラーチンさんが演じるので,ケンは腹をよじりながら笑っている。なんだか昔のドリフターズを彷佛させるギャグなのだ。他にも,

「しゅしゅしゅしゅ……」「ぽぽぽぽぽぽぽぽ……」というわけの分からない擬声語としぐさを多用して,突然ラーチンさんの演技が始まるときがあり,われわれは英語が聞き取れなくてもそれだけでも吹き出してしまうのである。

         


 ラーチンさんが戻ったところで市場に買い出しに行く。道端に車を止めて歩き始めると,だんだんと市場の喧噪が伝わってくる。まずバイクの数が凄い。ノーヘル2人乗りのバイクの波だ。排気ガスとほこりで咳き込んでしまう。

 売り場に近付いてさらに驚く。この市場がまた物凄い! ラヨーンの町の中心的な市場であるらしい。圧倒的な物量だ。特に海産物が凄い。カニやエビだけで何種類あるだろう! 貝の種類も豊富だ。魚も,生きたものから,現場で炭焼きしているのから,揚げたのから,干物まで。もちろん野菜も,ハーブも,果物も,驚異の豊富さだ。お惣菜の類も手作りの菓子類もあり,餅米と砂糖を使ったというお菓子には,ハエではなくて多数のミツバチ(!)が群がっている。

 オレは昔イラストで食えない頃,アメ横や築地の場内・場外でアルバイトをした経験があり,プロに混じって買い物をしたこともある。もともと市場の雰囲気が大好きなので,日本各地のそれをいろんな所で見ている。しかし,ほとんどが「地の物」と思われるこれだけの物量と種類の豊富な市場は見たことがない。7回のタイ経験があり,数カ月の滞在中いちども日本食を食ったことがないと豪語するタイフリークのケンをしても,市場に行けばまだまだ初めて見る食材がいっぱいあるという。洗面器のような器にカレーやスープや煮物なんかが入っていて,それをお玉ですくってビニール袋に入れて,輪ゴムでとめてくれるんだぜ!

 狂喜したオレは,はぐれる心配をよそに,カメラ片手にひとり人ごみをかき分け徘徊してしまったのだ。なんという喧噪。なんという熱気。美しい切り花からグロテスクなブタの頭まで,大きなものから極小のものまで,食材もすばらしいが,この人々の生き生きとした顔はどうだ。これが人生だ。これが地球に生きるってことだ。このときオレの目には,広大な市場の向こうにジャングルが見えたのだ。■





 






▲写真
1)ナガサキアゲハ
2)チャンタブリ、キリタン・ダム近くのジャングル
3)タテハチョウ科のマンゴーイナズマ。レストランの庭先で
4)エビを捕る男たち。ラヨーンのメイ・ペム・ビーチにて
5)上段左から、カレーのお惣菜。物色中のラーチンさんとケン。カニとエビの豊富さに目を見張る。
下段、アジに似た魚とエイ、エイの干物はポピュラー。豚肉のいろいろな部位を売る店。
ラヨーンの中心の市場で



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