カオ・ソイ・ダオのジャングル
このジャングルはタイ東南部チャンタブリ県の東に位置する。カンボジアの国境まで直線距離にして30kmほどのところにあるのナショナルパークで,われわれのコテージは国の機関である「カオ・ソイ・ダオ野生生物繁殖研究所」のゲストハウスだ。ここは希少な野生動物(鳥類、ほ乳類)の保護と繁殖させて森に還す研究をしている。もちろん一般の旅行者が立ち入ることはできないのだが,われわれはチャラン先生を通じて正式な書類申請をし,昆虫調査の許可を受けての滞在なのである。 林道には大きなゲージに大形のキジの類や,サルが飼われていたりするし,大形のシカも見かけた。日本の渓流のような川が流れていて,近くには滝の名所もあるようだ。地図を見ると頂点に標高1000m以上の山があり、山塊としての規模は小さいものの,タイ東部では有数のサンクチュアリーのようである。滞在中、チャラン先生は大学の講議の教材にするための粘菌のプレパラートを作っていた。 さて,旅の4日目,われわれは期待を一身に,昨日のジャングルへと向かった。昆虫の多くは午前中に採集しやすいものも多いから,特にトンボを目的とするタッちゃんやS氏,Tさんは気合いの入れ方がちがう。1人車にあぶれるので,オレが車の後部につかまって出発。これで川をじゃぶじゃぶと渡っていくと,子供のころの冒険の夢が満たされた気がして,オレは車に掴まりながらひとり悦に入っているのである。 よく晴れ渡って,下に広がる景色や,前方にはさらに高い山も見渡せる。オレは歩きながらやや冷静にジャングルを観察する余裕が生まれて,写真を撮っていたりしたが,それでも次から次へと目新しいチョウが横切るたびにネットを振る。かなり気温も上がっている。各自ミネラルウォーターのボトルを持って,水分補給を怠らないようにとケンから言い渡されていた。 途中ジャングルの中で,タオルでほっかむりして手鎌で何かを採取している現地のおばさんに会う。身ぶり手ぶりで聞いてみると,どうやら木の実のようである。一つ食べてみろ,と渡されたのでその小型の実を割って食べてみると,サロメチールのようなツンとした香りと苦味がやってきた。「おいしいおいしい」と言いつつ吐き出すと,おばさんは歯を見せて笑っている。タイでは様々な種類の木の芽や蕾,実などを食事の際の薬味として使うことを後で知った。これもそのような種類のものなのかもしれない。 ジャングルの林道を何度も往復する。その樹木の階層構造がすばらしい。重厚なシンフォニーを聴くかのような圧倒的な力強さと美しさだ。いつしか蛭やコブラの恐怖も薄れ,林道の最奥にひとりたたずんだとき,生死を超越したかのような深い安らぎを覚えた。そして涙が込み上げてきた。それは,中学から高校にかけて花園の森でチョウを追っていたときの感動によく似ていた。 至福の市場 午後は,オレとTさんがコテージに残り,Tさんは昨日と同じく午前中に採集したトンボの標本処理を,オレはラーチンさんとチャラン先生に付いて,下の町へ食料の買い出しに行った。 このマーケットが凄い。まあこれがタイの典型的な下町の市場だとは思うのだが,薄暗い市場に所狭しと野菜やら魚やら肉やら食材がわんさかと山盛りになっている。道端では日傘を立てた屋台が並び,炭火でソーセージを焼いていたり,エビせんべいのようなものを揚げていたり,たらいの中でお粥を煮ていたりする。もちろんいろんな果物もあるし,切り花の屋台もある。コオロギやバッタの揚げたのを売る屋台もある。犬が歩き回っていて,タイの女性たちが屋台に立って調理している。この驚異のマーケットが、あのジャングルから車で10分もかからない所にあるのだ。 チャラン先生が屋台で魚のミンチの揚物を注文し,若い娘が小型のコンロで油に火を入れて揚げ始めた。オレは珍しげにその一部始終を見ていたが,途中でスコールがやってきて,熱した油の中に雨粒が入り始めたのだ。げげっ,やばいじゃん! と思ったら,彼女は慣れた手付きで鍋に蓋をかぶせて、土砂降りのなか平然と調理を続けている。その間,雑貨屋の店先で雨宿りしていると,隣の八百屋では小学生くらいの女の子がお父さんのトウモロコシの皮を剥く手伝いをしている。路上の店先ではそのお姉さんらしい子が売り子をして,奥には幼児が昔懐かしい歩行器に乗ってニコニコとオレを見ているのだ。なんていい光景なんだ! オレは自分の子供の頃の懐かしくも温かな思い出がよみがえり,雨の路上でふたたび至福に包まれた。 似顔絵、夜の事件 コテージに戻り,ラーチンさんの似顔絵を描いてあげることにした。ケンから「滞在中に関係者の似顔絵を描いてプレゼントするように」と厳命を受けていたのである。こんなこともあろうかと,小さなスケッチブックの他に,canson紙の大きめのブロックを持ってきていたのだ。鉛筆で線画を仕上げ,水彩で色付けする。モデルをしてくれている間,どのような出来になるのか,緊張の面持ちのラーチンさんだったが,恐る恐る出来上がった絵を見せると 「オー……」としばし沈黙の後,とても喜んでくれて,何度も絵を眺めながら,いろいろと細かい批評をしてくれるのだった。 夕食は市場で買った60cmはあるバーカッポンというフエフキダイに似た魚を七輪で丸焼きにする。ソルトは振らないのですか? とチャラン先生に訊ねると、こういったものは焼いたあとナムプラプリックで食べるのが常道だ,という。素敵なのはジャングルのバナナの葉に包んで,最後に蒸し焼きすることで,バナナの葉は盛り付けの皿がわりにも使われた。別棟の食堂から油とナムプラのいい匂いが流れてくる。調理しているラーチンさんから「オオウチ!」と呼ぶ声がして,手伝いに行くと,ラーチンさんは上半身裸で汗を流しながら中華鍋を揺すっている。オレは卵を割ったり,皿を並べたり,できた料理をコテージに運んだりする。他のみんなは標本の処理に忙しいからだ。 さて,感動の一日はこれで終わらなかった。ここで働く現地人が,虫を採る日本人が来ているのを察し,近所で採ってきたカブトムシを持ってきたのである。それは世界の昆虫マニア垂涎の,コーカサスと呼ばれる大形のすばらしカブトムシだった。近くにダムがあり,その管理棟の明かりにやってきたものだという。死んでいるが腐敗臭がなく,昨晩採ったもののようなのだ。マレーシアやインドネシアはともかく,タイでのこの種の記録は聞いたことがないという皆は狂喜し,夕食もそこそこに,ケンを先発隊にラーチンさんに車を出してもらい,残る4人は,チャラン先生とウィスキーソーダを飲みながら待機することとなった。 市場の食材の中にタイ独特のソーセージがあって,それがウイスキーに実に合う。中に発酵した餅米とグリーンのタイチリが混じっている。それをショウガとともに口に運ぶのがタイ流だという。イカとインゲンの揚物も旨い。魚はバナナの葉を剥がすと焦げた皮がきれいに剥けて,それをほぐしてどんぶりの中のタイ米の上に乗せ,パクチイやキュウリやキャベツやトマトなどを一緒にかき混ぜ,ナムプラプリックで味付けして食べる。これで満腹になると,果物のデザートが待っているのだ。不思議な形の果実ランプータンや,果物の女王マンゴスチンを,指を濡らして頬張るのである。 10時頃,懐中電灯と採集用具一式を手に,健闘していたラーチンさんとケンが帰ってきた。ダムは厳重に管理されていて,事前の許可なく立ち入りは不可。結局採集を断念して戻ったという。しかし周囲の原生林を,明日はケンとタッちゃんで探ってみる,ということで話はまとまった。■ ▲写真 |