森と動物と林業・雑文
過去ログ/Vol.1
Masanobu's report & essay
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過去に大内が運営していた「間伐掲示板」や、
他のBBSへの昔の書き込みなどをここに採録します。

特に注記のないものはすべて私「大内正伸」の文章です。
タマリン@Masanobu」は大内のハンドルネームです。
2ちゃんねるでは「霊林(タマリン)」という名前を使っていました。

文中のURLはリンク切れが多数あります。ご了承ください。


(初出/2000〜2006『大内正伸と未来樹2001のホームページ』/©Masanobu Ohuchi 2006)



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◯No.1/集いの感想と意見など(投稿 2000.9.19 「森づくりフォーラム」掲示板 vol.1)

 全国の集い、お疲れ様でした。今年は久しぶりの東京大会とのことで分科会も多く、スタッフの皆さんも大変なご苦労があったことと思います。

 さて、3日間を通して感じたのは、そろそろ森林づくりの活動もある種の勢いでやって来たところから醒めた目で見れるようになり、もう一度ふりだしに戻って見渡し、知識を身につけるにつれ、ますます出口の見えない現況に気付きはじめた。組織が拡大し、ネットッワークが生まれ、森林づくりへの参加者が増えているにもかかわらず、暗礁に乗り上げているような、これからどこに行ったらよいか判らない……といった閉塞感を皆が持ち始めている、という印象を受けました。

 木質バイオマスと発電。確かに正論ですが、あまりに国土と社会情勢のちがうスエーデンなどの欧米諸国と同じレベルで考えてしまっていいのか? 大量にエネルギーを使い続ける現在の社会を認知したまま、エネルギーを代替するとしたらとんでもないことです。藁をもすがる、蓋を開けたら、儲かったのは機械設備屋と土建業だけ……そうならないようにしたいものだ。しかし現状の木材流通と製材のしかたでは大量の残材・木片が出るのも事実。昔は丸太を正確な角に挽かず、曲った材も上手に利用し、木っ端は焚きものにと余す所なく使ったわけですが、皆で火を囲んで暖をとり、つましく寒さに耐え、結果として自然と対話し、身体も健康たりえた時代をもう一度思い起こしてみるべきです。

 政策提言。森林地図や流域委員会、たくさんの制度の改革案、これまた正論で、よくぞここまで練りあげたと思う。しかしこれは現実問題として実行するのはほとんど不可能に思える。日本の山は持ち主が実に細かく分かれていてその境界さえ判らない状況にある。不在村地主もあれば共同の所有もある。森林計画という考え方も、管理権うんぬんという話も、なにか大事なツボを逃した、頭でっかちな考え方に思えてならないのです。とにかくこれを実現するには、気の遠くなるような時間と人手が必要なことは確かです。

 では、どうしたらよいのでしょうか。本当に出口はないのでしょうか。日本人はある明確な目標に向かって一丸となって進むとき、物凄いパワーを発揮する国民です。環境問題の裏の核心である森林づくりにたくさんの意識やエネルギーが集まりつつあるのは確かなのですから、ふり向ける明確な目標がぜひとも必要なのです。

 今、日本の森林は大変革期にあります。現在の森林形態は、歴史の中でかつて一度も経験したことのない形になっています。雑木林は老齢化して萌芽更新不能になりつつあり、スギ・ヒノキの人工林にいたっては間伐が遅れて風雪害を今かと待っているような状態です。所有者はごく一部を除いて自分の山の将来のビジョンをほとんど持っていないか、まったく持っていないのですから、一つの森林の理想形があればそれを提示して、誘導していくのが一番スムーズでよい方法と考えます。 

 ひと括りにまとめるなら「枝打された大径木のスギ・ヒノキの疎林の下に、雑木の下層植生が茂っている」というのを日本の人工林の理想形と考えて異存はないでしょう。健全な林分で用材も採れ、動物たちも住める、治山治水にも良い、密度管理が適正なら、このまま何年でも放置できる安定した森林です。雪や台風にも強い森林です。では、なぜ今までそれが成されなかったのか? ひと昔前まで国の指導で標準伐期齢が40年と決められていて、15年オーバーすると過齢林として扱われ、そういうものは5年のうちに伐らないと施業計画を認めないという体制でした。つまり近代の日本では、ごく一部をのぞいて大径木のスギ・ヒノキ林は生まれるすべがなかったのです。80〜100年生以上の材というのは製材しても無駄な部分が少なく、しかも用材としての質もすばらしく、建築用材として耐久性にも非常に優れたものです。

 今の間伐手遅れの林分を、その理想の森に変えるのはそれほど難しくありません。思い切って疎に間伐し、高さの半分かそれ以上の枝打をすればよいだけです。あとは自然の力が森を作ってくれます。すでに県の指導の元に実践している所もありますし、その密度管理のダイヤグラムも確立されています。ただし感覚的に選木せず、どのような林分でも形状比(樹高/胸高直径)70以下を残すようにすることが大切です。形状比の高すぎる線香林の場合は「巻き枯らし」で立ち枯れにし、残す木の支えにします。形状比は釣り竿と直径巻き尺を使って慣れれば素人でも計測できますし、疎に間伐すれば掛かり木も少なく効率が良いので現行の間伐補助金制度でも十分ペイします。将来はこの森を、抜き伐りしながらスポットで植えるのが理想の循環です。山にストレスを与えず、多様性を保った森林形態です。しかもこれは見ていても清々しく美しい森林です。民も官もプロもボランティアも、この森林づくりを理想形に掲げ、自分のできる範囲から始めればよいのです。まず理想の形が見え、お金が動かなければ、人は動かないものです。

 べつにこれを国是としてやる必要はないのです。できるところから、1haでもよいから始めるのです。あとは2年、5年とたつうちに、森林が雄弁に語り始めます。間伐遅れの森林は今後ますます風雪害で折れますが、この間伐法の形状比による選木と密度管理をすればまず折れません。そのうち「あんな山になるならウチもひとつお願いしたい」と口コミで広がっていくことでしょう。インターネットを使って育林経過を報告しあえば、野火のように広がる可能性もあります。環境教育も、企業の森づくりも、野生生物の問題も、すべてこの間伐から始めることができるのです。

 とういわけで、未来樹2001ではこの間伐のマニュアルをホームページで流していますのでぜひご覧になり活用して下さい。またこの秋、その理想形の森を見に行くツアーを考えています。

 来年、広島での『集い』には「間伐と理想の森林づくり」をテーマに、実際に山に触れ、もっと森林現場の人がやって来て議論できる『集い』になることを期待したいと思います。



◯No.2/同掲示板、2000タイトル日付不明

 国是として行なわれた戦後の拡大造林は当時の状況から止むを得なかったとはいえ、生命の循環の拠点ともいうべき森林を「広大な畑」と考えた一斉造林は、あまりに思慮が足りなかったと考えます。また、その後の育林についての一般的感覚、木材生産を第一に完満な材を目論む下層植生を無視した施業法は、やはり病的なものだと思うのです。「森林と人との関わりを通して森林の取り扱い方を考えるならば、絶対に正しい方法があるとは言えない」とMさんはおっしやるけれども、自然界の中で人がやってはいけないセオリーは厳としてあると思う。そして、森林に関心を持ち始めた人たちが、この部分を曖昧にしたまま進んでいるのを見る時(僕もその一人でしたが)、いつか壁に突き当たってやる気を失うだろうな……と思ってしまいます。

 その意味でも「理想の人工林」のイメージをきちんと掲げるのは大切ですし、この「新しい間伐法」の目からウロコが落ちるような体験は重要です。なにしろ間伐遅れの最低の森を、自分たちの力で最高の森に変えることができるわけですから。ほったらかしの、捨て間伐の残骸がもったいないですか? でもこれは、森に栄養を返し、林床に変化と陰影のある空間をもたらし、小動物の住処となり、多様な下層植生を呼び込む装置と考えられないでしょうか?

 上から計画を押し付けるのではなく、所有者や作業者が納得の上で、喜びをもってやる森づくりが良いと思うのです。農業のように1年で結果の出る世界とちがうので、林業の方向を国是として固定するのはよいとは思いません。また、平地から急傾斜地まで、日照や地質などによっても、高度差によっても細かくちがう日本の森林を、森林地図と森林計画で網羅するというイメージはやはり無理があると思うのです。それだけの力量を、今の日本人が持っているでしょうか。それに誰がどのような考えの下に計画を立てるのか。そしてその責任の所在はどこに帰するのか? 

 森林にまつわる文化的なものが、森づくりと同時に生まれることが重要で、それにはコミュニティの発生が不可欠ですが、森林計画の後に人手を投入するというという考えかたではそれは生み出しにくいと思います。

 小さな流域をモデル地区にしてこれをやってみる、とういのなら話は別ですが。それに提言のいくつかはもっともで、それについてはやぶさかではありませんが、この文章では最後まで読み通すのはかなり苦痛! 中に森林組合や森林公社などの貴重な情報があり、一般向け森林問題「辞典」「ヒント集」として別冊を編んでほしいと思いました。

 造らなくてもいいダムを1機やめれば、そのお金で日本の間伐不良林はすべて片付いてしまうという話を聞きました。無理矢理ひねりだす無駄な公共事業をやめて、それを林業の育林費用に回し、仕事を失う土建業には既設の河川のコンクリート三面貼りや護岸工の撤去と、ビオトープ型の自然工法に転換してもらい、その後の維持管理も国家予算で人材を投入し、間伐材や間伐炭をそれに使って経済を循環させる。それぐらいの荒療治がいま必要なのではないでしょうか。この新たな間伐法とともに。

※『新・間伐マニュアル』は「未来樹2001と大内正伸のホームページ」にあります。下記のアドレスより飛んで下さい。

未来樹2001と大内正伸のホームページ http://www2.tokai.or.jp/miraiju2001/
                          (現在 http:/tamarin.cside21.com/)
休止中


◯No.3/同掲示板、2000 タイトル日付不明 

 おおむねMさんたちの方向性がわかって安心しました。集約的なスギ畑のような森も、農家の裏山などで小さなモザイク状に点在するものは、むしろ点景として美しいとさえ思います。また『新・間伐マニュアル』のやり方も、日本の森林の所有形態からすれば、すべてがこれを取り入れるはずはないと見越してのことです。また、このやりかたでも、出しやすければ間伐材を搬出するもよし、空いた空間の使い方も様々なバリエーションが考えられるでしょう。

 森林計画の件について私は少々勉強不足でした。その公的資金のほとんどが土木工事に使われながら、内容が「新たな林業の再創造」を阻害するものであるなら、根本的な改善が求められますね。「日本の森林・林業が進歩発展しない大きな原因の一つが森林計画制度(中でも末端の森林施業計画制度)だと考えている」と、ある先進的な林業家が言っていました。

 「さがみの森」でみられるように、定年後の大きな楽しみとして森づくりに喜びを見い出す方々も増えています。『定年帰農』という造語が生まれたように、最近はこの人たちの勢いで農業人口は増えているのだそうです。あと6〜7年でベビーブームの団塊の世代の人たちが揃って定年を迎えます。もともとラジカルな性情のこの世代の人たちが、人間回帰・自然指向として農業や林業に目を向けるのは間違いありません。また、この掲示板にも投稿されている新世代の炭焼師や、脱サラの林業労働者、女性の森林官・森林組合就業者なども着実に増えています。ぜひとも、現代の事情に即した森づくりの明確な目標が必要なのです。その意味で『新・間伐マニュアル』の森づくりは非常に有効だと思うのです。いまや消えつつある地元の森を知る老人たち、作業員たちと、この林業ニューエイジの老若男女が「森を何とかしたいね」と同じ思いで集まった時、新たなコミュニティや森林計画の「核」もおのずと生まれてくるのではないでしょうか。もちろん市民の手で磨き抜かれた「政策提言」があれば、それは歴史的経過と諸問題を浮き彫りにするバイブルのような、重要な役割をはたすことでしょう。そのような編纂をぜひお願いしたいと思います。

 お忙しい中、誠実的確なお答えをありがとうございました。提言を噛み砕くのに、わかりやすいイラストなどご入用であれば、ぜひとも協力させて下さい!(^o^;)


◯No.4/同掲示板、2000「まず問題はここに」(日付不明)                                  
 あのー。難しいことはよく解らないんで教えていただきたいんですが、

 まず、外材の輸入を止めて、地球規模の森林破壊から日本が手を引き、同時に国産材を使うようにする。そうすれば自然に林産業が元気になって、山の手入れも行き渡る。それが一番いいですよね。これは小学生にもわかる。つまり小学生にも笑われてしまう恐ろしいことを我々は続けているわけだ。自国内の森林は伐るべき木が伐られないで、密度がぎゅうぎゅう詰めになって荒れ山になっているのに、よその国の木を伐って(それも一部は貴重な原生林をなぎ倒して)わざわざ資源のムダ使いをして運んできている。

 そこまでしてもきちんと商売として成り立ってしまうからやってるわけですよね? なにしろ日本は木を伐って出して製材して工業製品みたいにするのには地形も急峻複雑だし人件費も高いしお金に換算したら不利な条件が多すぎる(ただし日本の木を適材適所に使えば住宅などはケタちがいに長持ちする。それを一般の人は知らない)。それに、外国にも自国の木を売りたがっている人がやっぱりいる、ということでしょう。しかし我々の目の前の山が丸坊主にされて、それが外国にそっくり持っていかれる、というのを想像してみて下さい。日本人は心情的に耐えられないんじゃないんですかね。

 とにかく服でもおもちゃでも中国や東南アジアで作り、日本に輸入して販売する、という現代経済の定番みたいに、木材もその流れの中にあるわけだ。しかし、服やおもちゃとちがって、それが木であることが、両国の森林破壊につながっていることが、決定的な間違いだ。だから、これはきちんと輸入輸出わくを互いに制限するべきですね。森林に関しては「鎖国」──とは言わないまでも、厳しく制限することが絶対に必要です。これは輸入炭なんかもそうでしょう。互いの国の森林を環境的に程よい状態を保つために、譲歩しあう。これがまず頭に叩き込まれていない政治家は失格だ。我々も個人的にも組織としても声を上げ続け、できるところから行動していくべきでしょう。森林は地球規模でも残された生命循環の最後の拠点なんですから。

 次にPさんの文から、日本の林業の基本政策として「●水土保全:一伐採面積を縮小し、あるいは樹冠を複層状態に導く施業 ●森林と人との共生:郷土樹種等を活かし景観の維持に優れた施業 ●資源の循環利用:地域の特性を踏まえ生産目標に応じた施業」とありますが、それ事体は文面からすれば大変結構なことのように思えますが、これは「施業」というからには、単にほったらかしではなくて、手入れをしていくということなんでしょうね? 具体的にはだれがどのような方法でやっていくのですか? でも、その下の方の「ここには 管理放棄森林の増加を具体的にどう取り扱うかという具体的な展望はまだ示されていません」という一文、これはどういうことなんでしょう? 経営放棄林というのは国有林に限った言葉なのですか? 管理放棄林をどう取り扱うかが決まらないのにゾーニングが可能なんでしょうか?「森林施業計画の作成主体」「林政審議会」とはどういう人たちの集まりなのですか?

 どなたでもけっこうですから。わかりやすく教えてください。


◯No.5/同掲示板2000、タイトル日付不明

 Mさん、お答えありがとうございました。ほんとに勉強不足ではずかしいのですが、「森林環境破壊の構図は描けない」という点について、たとえば住宅建築木材以外に、コンクリート建築用の型枠合板だとか、住宅にも野地板などに大量の合板が使われていると思うのですが。現在ではそれも森林破壊とは呼べない「持続可能な森林」から生産されたものなのでしょうか? 紙の原料のパルプ材はどうなんでしょうか? 以前、ニューギニアの森が日本で段ボールの紙になっているという話を本で読んだ記憶があるのですが。それにしても、過去に熱帯雨林を破壊しながら木材輸入を続けていた事実はあるわけですよね。

 日本の間伐遅れの人工林は下草が生えず表土が流出している所も出てきています。線香林が風雪害で折れて惨澹たる状況のところ、集中豪雨で根こそぎ斜面崩壊をおこしているところ(流れた土砂は川を浅くし、ダムに堆積します)。これもりっぱな森林破壊と言えるのではないですか? 木材輸入が制限されれば、国内の木が流通されるようになって、自然に森林環境も回復する。でもそれはかなり難しいと、私もそう思う。

 だからこそ、未来樹のホームページにある「新・間伐マニュアル」のような施業法を強く奨めているのです。

 ●水土保全:一伐採面積を縮小し、あるいは樹冠を複層状態に導く施業
 ●森林と人との共生:郷土樹種等を活かし景観の維持に優れた施業
 ●資源の循環利用:地域の特性を踏まえ生産目標に応じた施業

これらのすべてを含めながら、しかしこれは決して金にならない森づくりではありませんよ。もう一度「新・間伐マニュアル」を読んでみてください。

 ホームページのアドレスを間違って書いていました。Hさんご指摘ありがとう!
 


◯No.6/同掲示板2000、タイトル日付不明

 私が間伐について強い興味を抱いたのは数年前の水害からでした。私の実家は茨城の水戸なのですが、そこを流れる那珂川が平成に入って2度も氾濫を起こしたのです。私の実家は上市と呼ばれる場所で幸い被害はなかったのですが、テレビニュースで見る故郷の氾濫シーンは衝撃的映像でした。なにしろ私が生まれてこのかた、このような大水害はかつて見たことがなかったからです。父母に聞いても、このような水害は記憶にないとのことでした。

 2度目の水害の年、未来樹2001のイベントでちょうど那珂川の源流部のある栃木県の矢板市に旅をしました。地元の林業関係者と話をする中で、この水害の原因は、間伐の遅れた荒れた山が原因の一つだと密やかに言っていたのを聞き、またしても衝撃を受けました。矢板の人たちは間伐材で利潤を上げているプロの人たちで、山の状況を知っていて信憑性もあったからです。そうか、戦後のハゲ山の洪水から、平成の荒れ山の洪水に移ったのか! と。

 現在の河川は、ダムや排水路に管理され、開発されて透水係数の変る場所は遊水池を義務づけられており、全体に洪水を起こしにくい状況のはずなのに、近年各地で頻繁に洪水がおきています。マスコミは原因を記録的な降雨量のせいにしていますが、私はこれはどう考えても森林の状況が変ったからと感じています。

 新潟の豪雪地帯を旅したとき、山の老人からこんな話しを聞きました。「最近は山に入って木を伐る人がいないので本当に心配だ」と。昔は薪や炭焼きのために、まず太く大きい木を選びながら伐採していったのだそうです。なぜならそのような老木を放っておくと、雪の重みで根こそぎ倒れ、そこから大きな斜面崩壊を誘発するからです。また太くなりすぎた木は、切り株から萌芽する力が非常に弱くなるのは御存じの通り。

 私に新たな間伐法と密度管理を教えてくれた福井県の鋸谷(おがや)さんは、福井で約200億円の被害を出したといわれる昭和56年豪雪からそのヒントを得たと言っていました。その大被害の跡地がいまとてもいい状態の針広混交林に変っているのです。また木を見るには形状比(樹高と胸高直径の比率)が非常に大事だとも言っていました。150生の木でも形状比が高ければ簡単に雪折れを起こすそうです。そういえば岩手大演習林で40年山を見続けている技官さんも同じことを言っておられたのがとても印象的でした。つまり100年生の山でも間伐が必要だということです。極相林、これは主に風雪害によるギャップで天然更新をしています。

 ことあるたびに、これから日本の山を救うのは「間伐」と「炭焼き」だ、と私は口が酸っぱくなるほど言い続けています。未来樹2001のホームページをムリに立ち上げたのも、一人でも多くの人に山の現状を知らせたい思いからです。ここ数年、私はかなり精力的に日本各地の山を見、現場の人の話しを聞いて歩いていますが、原島さんの書かれた危機感はけっして大げさではなく、いま日本の森林は実に大変なことが起きていると感じています。このままでは貴重な表土が失われ、土砂崩壊が起きるのが目に見えているからです。放っておけば状況はますます悪くなるばかりで、取りかえしのつかないことになりかねません。これは貴重な動植物の絶滅、特定種の異常な増加ともリンクしています。

 多くの方がこの掲示板の議論を見るべく、意見感想をよせるべく、私は個人的に有志・格団体にメールを送っています。皆さんもよろしくお願いします。いま私はイラストの仕事が(@o@;)こんなふうに目ん玉が回るくらいめちゃくちゃ忙しく、書き込みなどしているヒマはないのですが、取急ぎ日本の森林の未来のために一言!



◯No.7/近くの木で家をつくる(同掲示板 2000.10.29)

 数日前『近くの山の木で家をつくる運動宣言』(緑の列島ネットワーク/農文協)という本が私のもとに届きました。

「山と町、生産者と消費者、流通の川上と川下、そして各地の運動を結び、つなぐ、ネットワークの大きな力が、国産材による家づくりと健全な山を取り戻す」このような主旨のもと、木造建築文化と森林の荒廃を憂う人々の、運動体の宣言書です。422人の呼びかけ人の中には建築家、林業家、学者、文化人ほか、森づくりフォーラムの関係者も加わっていて、私も松下さんも、福井の鋸谷さんもここに名を連ねています。

「今、日本中の山が荒れています。建築物が、ある意味で自然の姿を変えたものだとすれば、山の荒廃は、そのまま日本文化の喪失を意味します。山は痛い痛いといって泣いています。それは町の痛みでもあります。それなのに、町にとって山は遠い存在です。まずその問題性を伝えようとして書き出したのが、『その全体像』と名づけられた、この文書でした」(あとがきにかえて、より)

 悩める山の問題は複雑で、宣言書を起こすのにメンバーで激しい議論があり、この本の文書は叩き台としてとらえてほしいとのことですが、多岐にわたる内容を上手にまとめ、一般の人々へのメッセージとしては大変よく出来た本であり、この掲示板の議論に関わる情報もあるので、以下抜粋(要約)します。

●日本の建築ラッシュの影に、熱帯雨林の商業伐採35年の歴史。先住民の立ち退きと文化の破壊、多くの人命を奪う大規模災害の要因に。原生林の木材が安かったのではなく、本来支払うべきもの(後続林の育成費用、伐採ダメージを償う費用、地元住民に対する社会的費用)を支払わなかったから安価だった(P.20)。

●日本の森林に4度目の危機。1度目、律令国家の成立過程でみられた古代の略奪期。2度目、秀吉・家康の諸国統一に象徴される近世の略奪期。3度目、大平洋戦争とその復興期。4度目、今回はこれまでのような破壊的な伐採によるものではなく、逆に放置されたが故の森林の荒廃(P.28)。

●伐採地までトラックが出入りし、野菜を収穫するように木を伐り出すフィンランドの森。地形が平坦で約90%を通直材の2種(マツ、スプルース)が占める。自走式車両機械のハーベスター(立木の伐倒・枝払い・玉切りを一気にやってのける機械)フォワーダ(機械処理集材)による少人数による効率的な収穫システム。作業車両にはコンピュータが装備され、伐採・造材回数や直径・長さ・樹種などがインプットされ、テレコミュニケーションで市況情報を得る。それに対し、多くの人手を必要とし、非効率な日本の山。しかし日本の伐出法は、諸外国には見られない環境親和性を持っている(P.97)。

●スギの立木価格は、今年(平成12)ついに40年前に戻るという信じられない安値。山は、祖先から受け継いだ資源を守り、循環させ、暮らしが成り立てばよく、町は、確かな品質のものを、限りある予算の中で求められればよいのに。その山と町の本意を「市場の原理」が分裂させ、隔てる(P.132)。

●日本林業の長い伝統が変革を困難にしている。林業とはこういうものだという思い込みが強すぎる。日本の場合は特有の森林所有構造や木材生産構造が発達し、役所の組織や制度もしっかりと固まっていて、容易なことでは変えられない。そうこうしているうちに、林業の活力が低下して内からの変革がますます困難になってきた(P.160)

 なにもかもがグローバルに均されていく中で、私は生態地域主義(バイオリージョナリズム)に共鳴する。家の中の柱一本にも板一枚にも、子供たちに語り伝える物語りがなければいけないと思っているからだ。日本の豊かな風土から様々な食材が生まれ、各地で見事な食文化がかたちづくられてきた。家もまたその土地と文化を美しく表現していた。裏山の木と、竹と、土と紙で造られた民家で100年200年風雪に堪えているものはざらにある。

「食」の伝統はおばあちゃんから連綿と伝えられた叡智。「家」もまた書物や数値では計れない職人技の集結。いま、旅する車窓から日本の住宅と森林を眺めるとき、この家と森は20年、50年、100年後どうなっているのだろうと想像する。文化がなければ人心は荒廃する。

 この本の最後の対談はこう締めくくられる。

「職人さんの技術は大事ですね。もちろん森で働く人たちの力も大切です。この運動は、自信を失いかけている全国の職人さんたちにもう一度自信を持ってもらって、次の世代につなげてもらう最後のチャンスだと思う(長谷川)」

「少なからぬ人たちが本来の家をつくりたいと思い始めています。今まではその思いが分散していたけれど、今こそそれらをつなぐべきとき。潮時というのがあって、今はまさにその潮時です。これらをつないで、社会的に大きな力にして、世の動きを変えないと、人類が絶滅に向かうシナリオを歩いてしまう。そこにクサビを打ち込むのがこの運動だと思っています(鈴木)」
 
 この運動体は2001年元旦の朝日新聞紙上で意見広告「近くの山の木で家をつくる運動  千人宣言」の掲載を計画している。

 詳しくは「NPO緑の列島ネットワーク」事務局へ。
 TLE:03ー5419ー3621

『近くの山の木で家をつくる運動宣言』(緑の列島ネットワーク/農文協)は定価1000円。書店にて発売中。



◯No.8/「お誉めいただきまして……」(同掲示板2000、日付不明)

 いやいやタケシさん、いくら値段の安いスギ山だからって、ばっさり伐って広葉樹に変えるなんて勿体ないですよ。間伐遅れの荒れ山だって、ここにいたるまで「地拵え」「植林」「下草刈り」「ツル切り・除伐」などなど、長くて大変な人力のプロセスを経ているのですから。スギというのは建築素材としてもすばらしい木なんだし。だから未来樹のホームページに載せている「新・間伐マニュアル」の方法は、現在放置されいる人工林を長伐期の複層林・針広混交林に変えていこうという提案です。今後もこの社会情勢が続くのであれば山にそれほど人手もお金もかけられない。山は生きていますから、現行通りのチマチマとした間伐をしていたのではすぐに次の間伐の時期が来てしまう。そこで大きく疎に間伐し、同時に高さの半分までの枝打ちを行うことで材の極端な太りを押さえ、下層植生を回復させつつ良材を育てる林業に変換していこうということです。

 それから、スギ・ヒノキの人工林を皆伐して放置しておけば、勝手に広葉樹の自然林に変るかというと、場所にもよりますが、再生してくる広葉樹の樹種が極端に限られたり、潅木のブッシュのまま止まってしまうところも多いようですよ。やはりなにがしかの手入れが必要だし、植林も(当然下草刈りも)必要になってくるでしょう。

 エネルギー革命が起きる前は、山から薪を奪い合って採っていました。炭焼きさんもかなり広範に入っていて、深山には木地師と呼ばれる木工技能集団もいました。天然林の一部はそれで自然に手入れがなされていたところがある。彼等は山との対話の中から得た不文律によって、伐採しつつ山を循環させるすべを心得ていたと思われます。我々はどうも石油や原子力エネルギーの上にあぐらをかいて、それら先人のことをすっかり忘れている。加えて、戦後の林業バブルの思い出を、人工林の施業の中に、あるいは流通システムの中に引きずっていたりするから厄介です。

 関東地方の低山には針葉樹のモミを極相とするところがあり、私の住む西多摩郡日の出町は(いまゴミ問題でその名が轟いていますが)かつては地場のモミで「塔婆」を作り、その産地として名を馳せていました。現在も塔婆の工場が稼動していますが、材は輸入材で作られ(つまり海を渡ってきた外材を日の出町の山中までトラックで運んでくるのです!)、あるいは中国で製品加工まで終えて、日の出町産として出荷しているところもあります。かつてのモミ山はほとんどがスギ・ヒノキ林に変っています。間伐の遅れた山、雪折れのまま放置された山、竹が山の中腹まで侵入している山など、周りは荒れ山の見本市のような状況です。おかげで町の中央を流れる平井川の水量も安定せず、かつて子供が飛び込んで遊んでいたという淵は浅く埋まり、雨が続けば濁流、晴れれば水が涸れることもあり、川で遊ぶ子供もごくわずかです。私はこの川流れを取り戻したいと思うし、この山の木でこの地に建築を造りたいと思っている。また、モザイク状に広葉樹の山が広がったり、モミの原生林が少しでも甦ったらステキだなと思っている。いま、老人会の人と、昔の山の物語りや風物詩を紙芝居にしようと動きだしています。

 私の考える生態地域主義というのは、そのような流域の本当の自然の活力と自然の恵みから生まれた土の匂いのする文化を取り戻す、というイメージです。それは、やりようによってはどんな場所でも、都市の中でさえ可能なのではないかと思っています。

 さて、そのためにどのような政策が必要なのか? Mさ〜ん、よろしくお願いしますよぉ〜!


◯No.9/森は畑ではない、身はかろやかに(同掲示板、2000.11/8)

 東京近辺の山では、私の見聞の範囲ではシカ(ニホンジカ、ニホンカモシカ)やサルの被害がかなりあります。農作物の被害も多いです。ただし全域ではありません。奥多摩町やあきる野市ではその対策のためのシンポジウムもひらかれています。江戸時代からの流れで人工林率が高く(西多摩地区では約70%)、今のスギ・ヒノキの間伐遅れの山では動物たちの餌はほとんどありませんから、草や若葉を求めて皆伐跡地や新たな造林地や畑に集中するわけです。また残された天然林は都の水源林として手厚く保護され、老齢樹が多く下草は案外貧弱かつシカの好物のササも少ない。また、過疎も原因の一端ではないかと言われています。人が畑や山に行かなくなったことで動物たちが安心して(?)食害するというわけです。

 昔は毛皮や肉を目当にニホンカモシカは絶滅寸前まで追いやられました。東北地方ではサルなども薬用としてかなり捕獲されていたと聞いています。現在はオオカミという天敵がいなくなり、人の狩猟者も少なくなりました。戦後の拡大造林で草地が広範にできたとき餌場が激増して個体数が増え、現在は間伐遅れで餌場を奪われているという状況もあります。その他、ゴミの投棄や排気ガス・煤煙などによる化学汚染、温暖化による気候変化、さらに今まで感じたことのない周波数・電磁波にさらされたりで、動物たちもリズムが狂ってきているのを感じます。この4〜50年の自然環境の激変は、野生動物たちにとってもここ数千年来初めての体験ではないでしょうか。

 一方で昆虫や植物などは絶滅危惧種が急増しています。これは里山の雑木林の変化や草原や湿地の減少など、かつて人が手を加えることで維持されてきた環境に長年適応していた種の消滅。あるいは宅地開発や河川改修などが主な原因です。例えば昆虫のチョウに関して言えば、高尾山から津久井の丘陵地に多産していたギフチョウは現在ほとんど見られません。東洋を代表する森のチョウ、ミドリシジミ類も若い林を好む種で、雑木林の老齢化にともない衰退しています。これらは数千年以上、人の暮らしとともにいたと思われる種です。

 皆伐跡地の植生の回復については、動物たちの影響の他に、その土地そのものの地質や歴史的過程による回復能力(タネや母樹の有無)、降雨量、また周りの自然度の高さ(風や鳥や小動物によるタネの運搬)に影響されることもあるでしょう。鳥や動物たちの存在は、急峻かつ雨量の多い日本の森林ではことに重要で、それは水に溶けて下方へ流れやすいリンや窒素などの肥料分を、糞をすることによって山の上方に運び上げてくれるからです。

 皆伐跡地は何も手を加えなければ、その土地と気候風土に適った極相林に向けて、長い旅を始めるといわれています。その過程には風雪害による倒木更新や、土砂崩壊、山火事もあることでしょう。どのような状態をもって良好な自然林と呼ぶのかわかりませんが、現在人工林として地味を収奪し、生態系をかく乱した後の「皆伐跡地」を、人がまったく何も手を加えず観察し続けて、50〜100年以内に立派な森になるかというと、(場所にもよるという限定つきですが)私には疑問です。ぎっしりとモヤシのようになって光が差さず(ササやカヤに覆われたり)、表土が流れたり、集中豪雨で崩壊したりしている広葉樹林を見ているからです。それが500年1000年というスパンなら、崩壊や倒木によるギャップ(空間)も、極相林(原生林)に収束するための好条件として働く要素と考えられるでしょうが。

 ですから、場所によっては、植生遷移の方向に沿ったかたちで植林をするとか、選木しながら間引くとか、人為的に森林の回復を速めることも必要だと思います。また、未来樹のホームページにあるように、今の人工林を残しながら、大きく間伐して、広葉樹の混じった複層林を目指し、ある程度の育林スパンを持ってその土地を観察し、山と対話できるよう感覚を養っていくのがよいと考えるわけです。

 本州の亜高山帯や不伐の原生林は別として、人の生活圏にあった天然林は、かつて炭焼き、焼き畑、狩猟、山菜類の採集、もちろん採材などに(かつてはクリの木を土台に、ケヤキを柱に、アカマツを梁にと、その他雑木も建築素材にしていました)利用されていました。我々の先人たちは、今よりもはるかに縦横に山を歩き、森の恵みを利用していたのです。また、そのような小さなかく乱のスポットは、動物たちの格好の餌場だったと思われます。すなわち過去の生活の結果としてあった自然林(純粋には自然ではない)と、いま我々が現代生活にどっぷり浸りながら放置しておく自然林とを、混同してはいけないと思います。

 たしかに長い時間軸で見れば、すべては一つの過程ですが、人間が快適な生活を求めるあまりここまで動物たちを追い込み、さらに人口が増えて、森との対話を失った現在の状況に反省の色がないなら、その極相林としての安定した森林を見る前に、人類はまちがいなく終局を迎えるだろうと危惧します。

 「持続可能な森林」から来ている(?)といわれる輸入材も、この先確実に何10年と続く保証はありません。海を越えてやってくれば、船も動力で動いているのですから、煤煙やCO2を吐き出しています。その船を造るのにも、先端技術の大型林業作業機械を造るのだって、鉄やガラスやプラスチックを、これまた製造のための石油エネルギーとともに大量に消費しています。そして、やがてそれはスクラップになるのでしょう。

 かつて炭焼き師は、その山にある素材すべてで勝負していました。小屋を建てるのも、窯を造るのも、わずかな道具と食料だけで、現地調達の石や土や木などを吟味し選択する目や技術を持って、山暮しをしていたのです。

「もうそこには帰れないよ」と言う前に、やはり現代の利器を必要最小限に選択しながらも、幾分かでもそこに帰る努力を惜しんではいけないと思います。それは苦しくも楽しい作業なのではないでしょうか。

 桑畑は桑の葉と桑の実しか生み出しませんが、山は実に様々なものを生み出し、動物たちも養っています。そして彼等もまた森づくりに参加しているのですから。
 
 離れずに
 花々から学び
 身はかろやかに
(G・Snyder『Turtle Island』より)

 地球の声と、土地の精霊に耳を傾けて、その真の労働の中から生まれる文化を味わうことは、人として最高に高度な喜びの一つではないかと思います。まず「最も大事なもの」を守るべき作業があり、貨幣経済はその後についてくる、という世界をつくること。我々がこれからどんな時代に向かっていくべきなのか、そこをしっかり見据えて、子供たちにも夢を与えるような、そんな政策提言であってほしいと願っています。


***

投稿「森づくりフォーラム」掲示板 vol.2

◯No.9./Re.環境林とはいったいなんだろう投稿日2000年 12月14日(金)10時09分

現在、国の制度で行われている保安林施業は、間伐率が20パーセントと決められている。
ところが、手入れ不足の荒廃した森林(間伐が遅れて真っ暗、下草なし、ひょろ長い木)は
2割程度の間伐では不足で、すぐに元通りの荒廃した山に戻ってしまう。
まして枝打ちをさぼっていてはなおさらです。
小さな空間を開けたくらいでは、すぐに枝葉が成長してまた地面に光が差さなくなってしまうから。

そしてこの伐ったところの2割の木というのは、材としてほとんど使い物にならない。
なぜなら、手入れ不足の荒廃した森林は「枯れ上がった木」「病害虫にやられた木」「風雪害木」
それを伐るだけで1〜2割の木が出てしまうのです。
本数調整伐で倒した木を出さない(伐り捨てている)ならその木を玉伐りする必要はありません。
沢や林道に落ちたもの以外は。その方が山のためにも良く、はるかに安全なのです。

以上、このよううなムダな作業が「環境林」づくりという美名の元に
われわれの税金を使って森林組合などで行われているのが実状なのです。
下部の作業員は何も分からず、なにかふに落ちないと感じながら。
上層部は何も考えていないか、あるいは確信犯。
そして「木が売れない」「木を使ってくれない」などと世迷い言ばかりつぶやきながら
日本の山はいつまでたっても良くならない。人工林のメカニズムをまったく分かっていないのだ。
天然林は木に優劣があるから自然に陰影が生まれる。放っておいてもなんとかなる。
一律に植えた人工林は受光調節のために「間伐」「枝打ち」という作業が絶対に必要になってくるのです。

現在の不良林を、本当に環境林を目指して変えるなら、
間伐率で35パーセント(これは材積率なので本数率で言えば5割以上)、
同時の樹高の半分までの高さの枝打ち(枯れ枝はすべて打つ。20年生以上の木なら7〜8メートル)、
が必要。これなら1度の施業でその後10年は放置できる。その間に自然の力が環境を取り戻してくれる。
ちょぼちょぼと木を伐るより、このほうがはるかに作業効率もよい(しかも安全に作業ができる)。

倒した木は使わないで倒したまま捨てる。
これは他の植物の肥料、昆虫の餌になる。倒木のすき間に
鳥や小動物のすみかをつくり、それらの糞がまた環境を整える要素になる。
本当の環境林はまた素晴らしい材を生み出す経済林でもある。伊勢神宮の宮域林を見れば明らかだ。

モヤシのようなどうしようもない間伐手遅れ林は「巻き枯し間伐」という切り札がある。
これ以外に救う方法はない。やがて「風雪害」という名の、天からの一斉間伐が下される。
これは自然の哲理。

われわれは「より太く、より長く、より多く」という林業を追求し、
必要以上の長さと材積を求めたことで、過密な人工林が普通の状態だと勘違いしはじめた。
「大刈り」と称して、せっかく生えてきた雑木を伐ってしまう作業まで平然と行われている。

いったい日本の学者、林学の先生方は何をやっているのか!!!

……………………………

付記/林野庁は今年の4月(平成14年度)から保安林の間伐率の上限を20%から35%に
択伐率の上限は35%を50%へ変える方針を固めた。鋸谷さんの提唱する間伐率33%に
ほぼ同じという一大朗報である。これに形状比を加味した考え方と、枝打ち施業を加えれば
保安林の目的は十分達成されるのではなかろうか。


◯Re.迷ってます/同掲示板 投稿日 2000年1月6日(日)20時44分

itoiさんこんにちは。森づくりフォーラム会員のタマリン@Masanobuです。
参考になるかどうかわかりませんが、私なりの考えを申し述べたいと思います。

>林業は自由競争にさらされたため、安価な輸入材に圧倒されて低賃金、採算割れの現状から極端な山離れが起きている。この傾向が続けばいつか山の荒廃へ結びつくのではないだろうか?

日本の山はitoiさんのお書きになったような理由で、現在すでに十分荒廃を招いています。人工林(日本の全森林面積の4割強)にいたってはかなり危機的な状況と言っていいでしょう。

>それとも雑木に覆われた大自然の森に帰すことになり、林業以外の不都合は起きないのだろうか?森や川や農地さえ自然のままに放置すること(開発もしない)は本当にだめなことなのか?

雑木林のような自然林は、治山・治水という部分を見るなら基本的に放置しても大丈夫と考えていいでしょう。しかし、林業としてのスギ・ヒノキ・カラマツなどの人工林。これは一斉に同じ苗木を植えたものですから、間伐などの手入れを怠るとモヤシのような森になってしまい、林床に光が差さず下草が生えないようになり、表土の流出、山の崩壊を招きます。動物の餌もありません。やがて雪や台風で折れてしまい、木材生産のための経済価値も失います。また、竹林の放置も深刻です。手入れしないとどんどん山にはびこってしまうのです。放置しておいていい場所といけない場所があるということです。

>低所得の山や田を見限って放置し自然に還してしまい、国民すべてが高所得の工業・情報社会で暮らしていく。竹中大臣もグローバル化しないと生き残れないと言われている。本当はどうなんでしょうか最近わからなくなってきました。

経済のグローバル化というのは富む物の戦略であり、基本的に「弱者は切り捨てる」ということにつながります。地域の文化を尊重しながら、自給できるものは自給するという方向が大切なのではないでしょうか。それでは生き残れないというなら、生き残れるぎりぎりを目指しても社会を変えていこうとする意志を持ちたいものです。
木材の自由競争だけでなく、エネルギー革命・新素材の出現などで、人と森との関わりが劇的に変ってしまいました。そのおかげで人の営みと歩調を合わせていた動植物の絶滅をも招いています。持続可能な、共生の社会を作る、というのが森づくりフォーラムの方針の核にあると考えています。

http://www2.tokai.or.jp/miraiju2001/休止中

◯Re.森や川を大切にしたいけど・・・・同掲示板 投稿日2000年 1月8日(火)17時57分

itoiさんはカヌーをされるようなので、川から森を眺めているうちに
いろいろと思うところがあったのでしょうか。

>人工の杉林や桧林が実用的には大部分を占めていて間伐や枝打作業が必要なんですね。

飛行機の窓から日本の国土を眺めると、山の国・森の国であることを実感しますよね。慣れてくると空の上から人工林と天然林の区別は容易に判断できます。人工林は単一の樹種で同じ大きさですから、きれいなカーペットを敷いたように見えます。この人工林が、日本の全森林のうち4割強を占めています(およそ1千万ヘクタールです)。この割合は世界的に見ても大変な量と比率です。この急峻な国土にこれだけの木を植えたというのは驚異的なことです。その人工林のうち、約2/3が緊急に間伐などの手入れが必要と言われています。

>モヤシ状態の密植の若木をそのままにしても自然淘汰されて原生林には戻らないんですか?

一見青々とした人工林の中に入ってみると、林内は暗く、草も生えていないような状態に驚かされます。下のほうの枝は葉っぱが枯れていて、生きた葉っぱは頭の上の方にしか付いていないのです。さらに林内を歩いて観察してみると、折れ曲がった木、枯れた木、病害虫にやられた木を、たくさん発見できるでしょう。間伐の遅れた「モヤシ状態の人工林」の内部はだいたいこんな状態です。
これを放っておくと、台風や重い雪が降ったときに潰滅的に折れてしまいます。折れたあとは再び林床に光が差しますから、草や広葉樹などが生えてきて、自然の森に還っていきます。山のためにはこれでいいかもしれませんね。しかしこれには2つの問題があります。

・せっかく植えた木が台無しになってしまう。
・木が折れるまでの間、山の土が雨で流れてしまう。

モヤシ状態の森、といってもここまで「地拵え」「植林」「下草刈り」「雪起こし」と7〜8年にわたる大変な手間をかけているわけです。せっかくここまできて折れてしまってはもったいないですよね。土砂の流出も大変問題で、草や落ち葉で地面を覆っていないため、栄養のある表面の土が雨のたびどんどん流れてしまうのです。これが農地や海に流れてくれればまだいいのですが(水に解けた腐葉土はプランクトンや海草を育てます)、今の日本の農地は河川の氾濫を受け入れるような構造になっていません。さらに日本の川はダムだらけですから、ダムに土砂が堆積してしまうのです。
早く「間伐」を行い、林床に草や雑木を導かねばなりません。

>それに国策として、採算合わない農地や林地も環境的・国際的な安全保障から考えて捨ててしまうこと出来ないですよね。
でも現実に山仕事の収入で子供に世間並みの教育を受けさせたり、家族で海外旅行したりなんかなかなか出来ないですよね。

国や自治体からの補助金という形で、農業はかなり援助されていると思います。林業も例外ではありません。「植林」「下草刈り」「雪起こし」「間伐」「枝打ち」と、すべての作業に補助金がつくようになっています。木を売らなくでも、所有者にそれほど負担がかからず手入れができるシステムが作られているのです。まだ完全な補助システムとはいえませんが。
これが実際に山に還元されない理由はいろいろあります。組織による補助金の独占、現代事情に即した施業がなされていないというのも大変な問題です。従来の林業技術にもたくさんのまちがいがあり、それを改革していくだけで、山を良くし、林業作業員の賃金を上げ、山林所有者の負担を減らすことが可能なのです。

※「地拵え」「植林」「下草刈り」などの作業については下のページを参照して下さい。
http://tamarin.cside21.com/tama2.html
休止中
※現代事情に即した林業技術については
http://tamarin.cside21.com/kan0.html
休止中
現在、月刊『林業新知識』(全林恊)誌上でさらに詳しく技術連載を行っています。
「鋸谷式 新・間伐マニュアル」文とイラスト:大内正伸(現在8回/10回)
終了しました



◯Re.途中報告です投稿日 1月11日(金)15時37分 同掲示板 

鋸谷さんの間伐講議録 http://tamarin.cside21.com/ogaya.html休止中(現在はこちらで読めます)
を読んでいたたければわかる通り、やり方を変えれば、今の時代でも
十分儲けがとれるわけです。現行の補助金制度で確実に山がよくなる。山林所有者の負担も減る。

たとえ補助金にたよった林業であっても、山のメカニズムを熟知して、
確実にいい山に変っていくのを実感できれば、作業員さんだって自分の仕事に誇りがもてるはずです。
真っ暗だった山がいきいきと甦り、沢に水が戻り、小鳥たちがやってくる。
その結果、山の木がすばらしい木材となっていく、それに手を貸しているわけですから。
ただし補助金の設立には十分気をつけないといけません。それによって施業が左右されてしまいますので。

切り捨て間伐を推賞する鋸谷式は、結果的に、
集約的林業で林道を配備し、間伐材で独自の販売ルートを開拓して頑張っている林業地、
個人の方々を救うことになるのではないかと考えます。
皆が皆、間伐材を市場に出してしまっては、さらに材価が値くずれして、
いままで一生懸命やっていた方々の足を引っ張ることになるわけですから。


番外●掲示板掲載中のメール
掲示板への書き込み最中に以下のような内容のメールが届いた。鋸谷さんに転送し、届けられた解答。

>鋸谷さんの間伐講議録を読んでの疑問。山の労働は年間実労働で250日までであろうと思うが、500万円の年収なら日当2万円換算になる。が、一般的にはベテランで1.5万円程度までではないのか?
鋸谷さんの仰るように数年後には750〜1000万円/年間になるというのはちょっと信じられない。なんと日当換算で3〜4万円になるのだから。
鋸谷さん式林業で生産性が上がって山林所有者の収入が幾分上がるかもしれないが、それが作業員の手間賃にどれほど反映されるのかは疑問なのではないか?

    ★

差出人:Sigeru Ogaya 宛先:大内正伸 件名:Re.質問について  02.1.15.0:09AM

大内さんへ

今年もよろしくお願いします。

先週の11日に3月号の原稿見せて頂きましたが、直すところはありませんでした。

森づくりォーラム『日本列島森づくり百科』の原稿を11日にSさんにお送りしま
した。大内さんのイラストも使わせて頂きました。

Iさんの質問の件ですが、次のように答えてあげて下さい。

作業効率が上がっても森林作業員の方の1日当りの賃金が3〜4万円になるのが信じら
れないと、感じておられるようですが、私の作業法で行えば1日当りの賃金が3〜4万
円になります。

下刈り、間伐、枝打ちなどのヘクタール当りの事業単価は全国的にみれば福井県は決
して高くありませんが、作業員の方はヘクタール当りの受け取りで作業を行いますの
で、作業効率が上がればその分1日当りの賃金が高くなります。

作業員の安全を第一にして、見栄えの良い作業でなく施業効果が発揮される作業法、
年間を通した作業の組み立て方などで徹底した作業の効率化を図っております。

この方法は決して手抜き作業ではありません。
従来の作業と比べれば格段に品質の高い作業をしております。また、どの作業員が
行っても「同じ品質の作業」ができるように作業マニュアルを作成しております。

今年から、福井県ではこの方法で、保安林関係の森林整備工事を全ての森林組合で取
り組んでいますが、私が直接聞いた森林組合はすべて「驚くほど作業効率が上がっ
た」と感想を話しておりました。

とにかく、従来の森林管理の作業法には無駄な作業が多く含まれています。
作業員の安全を第一にして、見栄えの良い作業でなく施業効果が発揮される作業法、
年間を通した作業の組み立て方などで徹底した作業の効率化を図ることができますの
で、私が提唱しております方法で何か一つ一度試してみて下さい。

日本の山をよくするためには、山で働く作業員の方の社会的地位を上げることが必要
だと思います。その第一歩が、従来よりも品質の良い仕事で賃金を上げることだと考
えております。

2002.1.15

鋸谷 茂




Re.2回目以降の間伐について 投稿日2000年 1月15日(火)20時38分 同掲示板

itoiさんへ。

>モヤシ林の1回目の切り捨て間伐の施業効率が良いのは分かりましたが、2回目以降の間伐はどうなんでしょうか? 
1回目で枝打ち手入れした木を間伐することになりますが、有用材として搬出するんでしょうか? それとも2回目以降も切捨て間伐になるんですか?

鋸谷式間伐の基本的な考え方は大径材、優良材生産、かつ環境にも良い、
持続性の高い山づくり、ということです。
具体的には「樹齢80年以上、胸高直径60cm以上」を最終目標においています。
その間の間伐材が優良材で、かつ搬出してもその時代の経済事情に見合うようなら搬出すれば良いと思います。

たとえ大径材でも間伐を怠ると風雪害の危険があります。
ただし大径木になればもっとゆったりしたスパンで間伐を考えればいいです。
http://tamarin.cside21.com/kan8.html
休止中
の表を参照して下さい。
さらに詳しい密度管理図は月刊『林業新知識』(全林恊)2001年8月号P.7
及び、『森のセミナーNo.8 森を豊かにする間伐』(同)p.44に掲載しています。

>疎林に仕立てて下草や潅木、雑木の中低木が植生するようになるのですから、その時点での間伐はやり難くなり、まして搬出作業は非常にむずかしいのではないのでしょうか?
2回目以降の施業効率が悪いのであれば、賃金の大幅アップが出来なくなりますよね。

間伐は何のためにするのかというと、この雑木の中層木を呼び込むためにするわけです。
それが治山・治水、育成木の肥料として非常に重要な役割をするわけですから。
次回の間伐・枝打ちの際は「安全確保のため、作業のじゃまになるところだけ雑木を伐る」という考え方です。
その方が全部きれいに大刈り(作業しやすいように雑木・下草を伐る作業)するより作業効率が良いのです。

たとえば雑木が生えていないような山は、林床に光が差していないわけですから、
当然育成木の密度が高いわけで、また上部でつる植物などが木々を繋いでおり、
今度は逆に間伐の際、「掛かり木」といって、伐っても中ぶらりんで止まってしまい、
倒れないという状況が起きます。
間伐作業が大変やりにくく、かつ危険な作業になってしまいます。

間伐を重ねるごとに間伐・枝打ちのトータル本数は減っていきます。
それも作業効率アップにつながります。
間伐材の搬出作業の効率というのは、むしろ林道網のあるなしにかかっています。

>ところで奈良の吉野林業は、末口・元口の径の差が小さい『オチ』の少ない丸太が値打ちが高いというので密植しているように聞いたのですが、そんな方法は古いのでしょうか?

特別な用途(例えば床柱用の磨き丸太生産、樽用等)の場合はいたしかたありませんが、
これからの林業は健全な森林づくりを第一に、変っていくべきだと考えます。
密植して末口・元口の径の差が小さい材を生産しようと思えば、
下草や雑木が生えず、雨のたび表土が流れ、
やがて施肥をするというような、病的な循環になってしまいます。
末口・元口の径の差が小さければ製材の歩留まりがいいのは確かですが
このような材の生産と環境的に良い山というのはまず両立することはありません。
植物が光を浴びた光合成で生きているかぎり、これは自然界の厳とした法則です。
また末口・元口の径の差が小さい材は形状比が高いわけですから、
当然、風雪害に弱い山ということになります。

>もう一つ、補助金は保安林に指定された場合にでるようになっているのでしょうか?

補助金は保安林に指定されていない山でも出るようになっています。
保安林に指定された山の場合は、「税金の優遇」や「伐ることに対する制限」などが加わるということです。

以上、長くなりましたが。

……………………………

付記/枝打ちされた幹は毎年同じように均一に太くなっていくので、鋸谷式の密度管理の場合でも長年たつと枝打ちされた下部(一般に林業的に製材されるのはこの部分です)だけは完満(末口・元口の径の差が小さい材)になっていきます。ただし全体としての形状比はたいへん低いですから、風雪害から逃れることができます。


補足/人工林の中になぜ雑木が必要なのか?投稿日 1月16日(水)10時17分 投稿者 タマリン@Masanobu
>間伐は何のためにするのかというと、この雑木の中層木を呼び込むためにするわけです。
それが治山・治水、育成木の肥料として非常に重要な役割をするわけですから。

上記について補足します。なぜ人工林の中に侵入する雑木がそれほど有用なのでしょうか?

スギ・ヒノキなど人工林の育成木は、伐採したあと切株が腐っていきます。
7〜8年で腐り始めて縮んでいき、そこから雨水が入り込んで、
土砂崩壊を誘発しやすくなります。

雑木はそこにしっかり根を張って、これを防いでくれます。
育成木が間伐されると光りが差す空間が広がり、
中層で待ち構えていた雑木が光りを獲得して一気に成長し、
その空間をバックアップし、深く根を張って山崩れを防いでくれます。

また、雑木は葉っぱを大量に落してくれます(落葉樹だけでなく照葉樹も葉っぱを落します)
葉っぱは地面を覆って、雨で土が流れるのを防いでくれます
もちろん葉っぱはやがて腐葉土となり育成木の養分となります。

また、雑木には大変有効な特徴があります。
雑木の多くは伐っても切株から新たな芽を吹き出して成長していくのです。
つまり、雑木は伐っても根が生き続けるのです。
薪炭林、雑木林の再生・循環は この萌芽更新の性質を利用したものですが、
「治山」の観点からは語られることが少ないようです。
里山では、ナラ・カシ・シイ・ケヤキなど萌芽力の旺盛な木を大切に保護し、
これらの樹種を選んで育ててきました。これは薪炭林として有用なだけではなく、
植生によって土砂災害を防ぐ知恵でもあったわけです。

雑木は腐葉土をつくり、表土の流失を押さえて保水力を高めます。
スギ・ヒノキを伐採したあとの空間を補完し、根っ子を地中深く伸ばして土砂崩壊を防ぎます。
雑木に依存する昆虫、動物もやってきて、生物相も豊かになり、
森林に健全な生物循環が生まれます。こうして安定した川の流れにも貢献するのです。

以上、これでだいぶご理解いただけたのではないかと思います。


……………………………

付記/「広葉樹の多くは切株から萌芽する」と書いたが、これにはただひとつ問題がある。
太く成長した老齢の木は、萌芽力が弱くなるのである。かつての里山では長くても30年サイクルで
伐採していたので問題はなかったが、今の時代の流れから雑木林を放置し続けると、樹種によっては
萌芽再生が難しくなってくるのである。
雑木林を放置し続けた場合、治山には問題が少ないが、1000年以上にわたって培われてきた
萌芽再生の循環が断たれるわけで、それにともなう生物多様性が失われることになる。
中川重年さんらの提唱する、遊びを導入しながら森の手入れをしていく方法や、
(体験セミナーシリーズ『森の手入れ、森の遊び』全林恊)
「炭焼き」の復興を期待したいところである。





間伐講義2001山崎記念農業賞