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日の出日記◆260.日原鍾乳洞へ★'03.8/12 今日はお待ちかね、東京西多摩山林見学会である。 「武蔵五日市駅に8:30くらいに車でお迎えに行きますので」 と言っておいたのだが、6時台にyuiさんから電話。 「みんな準備できててもう待てないから、出発していいですか?」 湯口さんなどは講演会よりもこっち(山の見学)が楽しみ、と言っていたからなぁ。でも、みんな元気だ。 7:30過ぎに電車が着き、サンドイッチやおにぎりを買い込んで出発。道を戻って羽生通りを走り、私の家に周辺を見てもらう。それから二ツ塚峠を越えて多摩川を渡り青梅へ。 途中、西多摩自然フォーラム個展で参加したギャラリーレストラン『繭蔵』の前を通る。西日本では大谷石の蔵は少ないそうで、湯口さんは珍しげに見ていた。 さて、ここから一路、一気に東京都の最奥まで行ってしまおうと考えた。青梅街道を西へひた走る。走るにつれ山深くなり、周りが人工林だらけなのに湯口さんは驚いている。 「すごいね、うわさには聞いてたけど、これほどとは思わなかった」 そのほとんどが間伐遅れの山で、鋸谷さんたちが 「おお、これはいいね」 「やっぱり、どこでもきちんとやっている人はいるね」とOKを出したのは奥多摩湖までの道のりで1個所だけだった。 「しかし、こんなんじゃ(間伐を)やってもやってもきりないワ。鋸谷式でさえ全部やりきれんうちに次の間伐がやってきてしまう」 深い峰峰のてっぺんまで、一面人工林に覆われている山肌を見ながら、湯口さんがため息をついた。 奥多摩湖へ着いたのは8:30頃。天気は雨がぽつりぽつり。湖面を見て鋸谷さんが指を差す。 「見てください、流木の形を」 それはきれいに枝が払われ、玉伐りされた丸太だった。先日の台風で流れてきたらしい。 「最近、流木被害を騒いでいるのですが、伐り置いた材を玉伐らずにそのまま放置すればこんなことにはならないのに・・・」と鋸谷さん。 また周囲の山にクズが多いのを観察されていた。しかしクズは根元の茎を切る作業を時期を逃さず続ければ枯れていく。マント状に広がっていても、元の茎の部分はそう数多いものではないという。 奥多摩周遊道路から檜原村に回るのも面白いと思ったのだが通行止め。道を戻り「東京都体験の森」まで行ってみる。ここは森林ボランティアの体験施設というかセンターのような役割をしていて、ここから巣立ったボランティアたちが、いま東京都と森づくりフォーラムは主催する「大自然塾」のリーダーをやったりしている。 そんな林業体験メニューの様々なパンフが置いてあるのだが、中に「大刈り体験」というのがあってなんと私の住む町でもやっているのだった。大刈りとはおもに放置林のボサ刈りのことで、東京の間伐手遅れ林は雪折れが多く、空間には広葉樹が繁茂してくるのだが、そのせっかく生えてきた広葉樹を伐ってしまう作業である。このような間違った施業が「体験林業」としてまかり通っているのである。 ちなみに「大自然塾」のHPを調べてみると体験談の中にこんな文章が載っている。 「大刈りは今後作業するときに安全に作業ができるようにするための作業です」 「今回は約20年間放置されているスギ林の大刈り(ボサ刈り)でした。5人の班を3つ作って作業を進めていきました。大刈りはスギ以外の低木を刈っていく作業で私自身はなかなか楽しい作業だと思っています」 これを読むと、この指導者はスギ人工林の中に生える広葉樹の重要性をまったく理解していないことがわかる。また、間伐体験のページを読むと、伐り捨て間伐にもかかわらず、玉伐り・枝払いをやらせているのだった。 東京西多摩に森林ボランティアが発生して15年。いまだに作業内容がでたらめで森林生態系の仕組みが理解できていないのは、その指導者の林業家たちにも大きな責任があると思う。なにしろ枝座をナタで打って幹にシミを入れてしまう枝打ち技術の間違いをはっきり指摘したのは、昨年の私の著作『鋸谷式 新・間伐マニュアル』が初めてなのだから。森林ボランティアグループには、いまだにナタで枝打ちをやっているグループがあるのである。また、従来のやり方を踏襲した「線香林の2割間伐」、伐り捨て間伐における「玉伐り」「枝払い」「林内整理(横積み)」はほとんどのグループで日常的に行われている。 なぜこの間違いに気づこうとしないかというと、彼らの多くは体験によって汗を流すことがまずやりたいのであり、ものを伐ることで作業を覚えたり整然と林内整理することで「森を助けて良いことをした」という自己満足に浸りたいのである。それで森がどうなっていくかは想像できない。私も、その体験を通過してきたからよくわかる。しかし、間違いは間違いである。体験や練習と本来の山づくりは切り離し、きちんと山の原理を、人工林の原理を教える(学ぶ)べきである。しかし、以前ある森林ボランティアのベテランにこう言われたことがある。 「鋸谷式間伐というのは日本にいろんな間伐法があるうちの一つだろう。それが通用しない地域もあるし、従来のやり方で何が悪いのか」と。 この人は『鋸谷式 新・間伐マニュアル』を持っていながら中身を全然読んでくれていないのだ。この本の内容は、間伐という特化した作業のノウハウの形をとりながら、日本の気候風土に合った人工林施業の最も重要な根本の部分を語っているのだが。 日本の林業技術は、木がものすごく必要だった時代の施業法をスタンダードにしたまま、そこから抜け出ることなく日本中に線香林をつくり出してしまった。そこにさえ従来の施業を行って、その間違いに気づかないでいる。 ここには「完満で目の詰まった無節のヒノキ(これは並材の5〜6倍の値段がつく)づくりをする林業家が一流である」という倒錯した認識が、さらに混乱に拍車をかけているように思われる。このような山づくりは、山を畑とみなした経済論理からは正しいが、山の環境的には決して正しくない。いや、長い目でみれば、経済論理からも正しくない施業法であるといえる。 「日本の多くの林業家たちは、この一番大切な森林生態系の根幹を解っていないのではないでしょうか」 「その通りです。信じられないかもしれませんが、その程度のものなのですよ」 「では、どうしたらいいのでしょうね。彼らが林業界の中で大きな発言権を握っているじゃないですか」 「とりあえず『本』という形で残しましょう。われわれの強みは何もしがらみがないということです。失うものはない、恐いものはないのですから、堂々と真実を発信していけばいいのです」 鋸谷さんとのそんな話を中座して、今日の一番の目的地である日原鍾乳洞に向かった。途中で鋸谷さんたちが写真を撮り始めた。スギの線香林に下枝が残り、それが生きているものがあるのが珍しいらしい。雪国では、この部分は降雪で折れてしまう。しかし生き枝があるということは、線香状態からの回復も早いということだ。ここに巻き枯しを施せば、いくらでも森は再生するし、環境的にもすばらしい人工林が甦るのだ。 日原川流域の荒廃したヒノキ林。間伐直後のようだった 日原川は西多摩地区における多摩川の一大支流である。多摩川本流は奥多摩湖の先に山梨県へと続くのだが、東京都側の源流部はこの日原川を最奥とする。ここには関東で最大クラスの鍾乳洞がある。この沢を小川谷といい、かつてはこの谷と日原川の合流点に国民宿舎があった。実は、私の最初の大旅行は、中学1年のときにこの国民宿舎に泊って釣りをしたことなのだ。 なぜ茨城の水戸くんだりから日原まで来たかというと、当時釣りに凝っていて釣り雑誌を購入していたりしたのだが、その雑誌にこの辺の釣り場の記事があったのだ。ここなら鉄道とバスで行けるし、国民宿舎なら泊りも安心とでも思ったのだろう。私が首謀者となり、時刻表で電車を調べ、電話で宿を予約し、友人たちと4人で大旅行を企てたのだ。海の近くに育ったわれわれとしては、奥多摩の谷の深さと渓谷の美しさは驚くべきもので、感動も大きかった。 その日原の合流点(ここがバスの終点だった)の佇まいを、不思議なことに私はしっかりと覚えていた。そう、私はタマリンとなってここに30年振りに舞い戻ってきたのだった。 あのとき、ここまで来ていながら、釣りにばかり夢中で鍾乳洞へは行かなかった。またしても4人旅だが、今回はもちろん入ることにしよう。入洞料600円。鋸谷さんを先頭に私が最後部。坑道へ向かう橋からみた小川谷の水は美しい。 「すごい水量!」と、またyuiさんは水の勢いに驚いている。 洞窟内の温度は10度と低い。「涼しい」を通り越して「寒い!」とだれもが声をあげた。 しばらく歩くとまるでカテドラルのような大空間が現れ、思わず「おおおお・・・」っと唸ってしまった。日本アルプスの巨大な岩山をみるとき、有無を言わせぬ圧倒的な感動が込み上げてくるが、このような自然の岩窟も同じような感じを受けるものなのだね。 それにしても通路もまたよくできている。残念なのは鍾乳石がくすんだ色のものが多いことで、これは発見当時から松明で燻されたものらしい。
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