『Outdoor』No.163(山と溪谷社/1996.10)



「大内正伸の花園山釣り紀行
文・イラスト/大内正伸









ふるさとの山、花園山

 小学生のころから、僕は昆虫少年としてチョウを追いかけていた。水戸の市街地に生まれ育った僕は、やがて山地性の珍しいチョウを求めて、県北の山をめざすようになった。同時に釣りにも熱中していたけれど、こちらは中学時代にルアー釣りのブームに巻きこまれ、やはり県北の谷にヤマメを追い求めるようになる。そんなわけで、どちらの要求にも応えてくれる花園山周辺は、当時から格好のフィールドで、電車とバスを乗り継いで、よく出かけたものだった。

 でも、それだけではなかった。花園には、いわく言いがたい魅力があったのだ。
 高校時代、勉強もせず、ただ自然の中に浸ることに喜びを覚え、図書館で山の写真や仏像の写真に心ひかれていたあのとき、僕は絵画に深く傾倒しながらも、どこか進路に疑問を感じ、ますます自然の中に沈潜する道を選んでいった。卒業したその夏、僕はフレームパックを背に、朝日連峰へのイワナ釣りの旅に出かけた。

 たそがれの空を乱舞するゼフィルス。花崗岩の白泡に踊るイワナたち。近ころは山岳の花々に魅せられ、僕は旅を続けてきた。そして今は森に興味をもち、林業の真似ごとを楽しんでいる。花園は、僕の長い人生の旅の前奏曲。あるいは創作の核ともいえる思い出をくれた場所だ。
 そんな僕のふるさとの山を紹介しよう。花園山釣りの旅、沢登りありトレッキングあり、もちろんフライフィッシングも!

 茨城の自然愛好者なら誰しも、花園には特別の思いを抱いているのではないだろうか。海から近く標高1000mにも満たない山だけれど、多彩な動植物を往まわせて、昆虫少年にとってもあこがれの場所だった。一般の茨城県人には花園神杜の存在で有名な所で、「花園」の名の由来はアズマシャクナゲの群生によるものだともいう。

 花園川はヤマメの棲むおだやかな里川だが、上流部は鬱蒼たる深い谷を刻んでいる。また最源流部には、亀谷地(かめやぢ)と呼ばれる湿原があり、水戸の野草愛好家の建てた山小屋があって、多くの人に利用されてきた(現在は取り壊され、あずま屋が建てられている)。僕も何度か利用させてもらったが、この小屋をべースにチョウを採ったのは宝石のような思い出だ。友人たちとの出会いや、ホタルの群れの明滅などを、咋日のことのように思い出す。

 深山の雰囲気でありながらホタルが舞うというのが花園のおもしろいところだ。ブナを主とする落葉広葉樹林帯よりもわずかに低く、照葉樹林帯の北隈には届かない中間地帯。ブナ、イヌブナ、ミズナラ、コナラ、クリ、カエデ、シデ類、ケヤキ、モミなど多様な樹種の原生林が広がっていて、かつて一帯は樹海の観を呈していたという。その多くは伐採され、いまは猿ガ城渓谷周辺や小川の先に、械物群落保護林として残されている。

 花園神杜は山奥の気品ある社(やしろ)。周囲の杉林は500年生のものもあって圧倒的だ。古くは平安時代の山岳寺院で、境内のコウヤマキは堂々たる大樹に育った。

 この地の「塩の道」ともいうべき街道の存在を知ったのは、チョウの採集をやめたずっとあとのこと。奥花園の「山の神」のいわれを調べようと、林業家の古老を訪ねたときのことだった。この道は棚倉街道とも呼ばれ、江戸時代に平潟港から才丸、小川を経て棚倉へ塩、魚、鉄(鍬鍛冶の原料)などが人馬によって運ばれていたのだ。当時よくオオカミが出て旅人を襲い、中に簪(かんざし)をのどに刺した1匹がいて、それを抜いてやり、その場所に山の神を祭ったところ、出没がやんだという伝承があるのだった。

 僕たちはそんな場所でチョウを追いかけていたのだが、この言い伝えの中に、自然との共存を願う村人の思いが、込められているような気がしてならない。







text & illsutation by Masanobu Ohuchi





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