エッセイ・森の国
Masanobu Ohuchi





豊かな自然に恵まれた国の日本人が、自然の恵みを捨てて世界中のものを漁りながら、日常生活のなかで環境を破壊しながら暮らしている。僕はアウトドアにのめり込んでいた中高生の頃から、そんな虚無の暮らしにうんざりしていた。東京の都会のまん中でサラリーマンをしていたときも、フリーになってイラストでなかなか食えないままアルバイトで地べたを這いずりまわっていたときも、様々な仕事先で生活と環境をみて、その思いはますます強固になっていった。

高度成長のまっただ中で働き続けていた両親は、暮らしの中では高級さと便利さを追求していた。ピカピカのテーブル、小奇麗なビニールクロス、テレビと石油ストーブ、様々な電化製品。僕は幼少のころ両親の実家で体験した、火鉢や手漕ぎ井戸やランプのある生活が無性に懐かしく、そのピカピカの暮らしに強いアレルギーを感じ続けていたものだ。

「働く」という感覚もそうだった。なぜ、やりたくもない仕事を我慢しながらやって現金を稼がねばならないのか? サラリーマンを辞めて山小屋でアルバイトを始めたとき、その厳しい労働の中で現金収入はとたんに落ち込んだが、僕は長い人生の中で、最も自分らしい充実の時間をつかんだと思ったものだ。

それでも人並みに結婚し、子供ができ、それからは生活と自分の仕事を確立することに追われた。冠婚葬祭、実家への帰省、高い家賃、保育園に12年間通い続け、3人の娘たちと長い長いときを過してきた。それでも必要以上の近代化の生活に反発することは、けっして忘れなかった。否応なくそれが降り掛かってくるときは、またしても強い違和感を感じていたものだ。







この借りた古民家の中でさえ、大いなる自然が満ちている。たとえばいまパソコンを打つ目の前をカメムシが歩いているし、家の中でガが発生していたりする。

家の中でカマドで薪を焚いていれば、いつも灰にまみれて汚れ、汲取り便所からはウジがわきハエとなって飛び出してくる。近代化はそれらを徹底的に排除し、ピカピカの生活に変えていく過程だった。石油化学製品を使い、薬品を使い、本来は人と連鎖しているあらゆる生き物たちを、人の都合で見えないものにしていく。

地球上ですべてそんなことが蔓延すればおかしなことになるに決まっているのだが、相変わらず僕らは同じ生活を続けているのだ。最近の異常気象が「もう地球環境は臨界点を完全に超えているよ」と教えてくれているように思う。



雨上がりの敷地に、その水に洗われた土と緑の中に、石油化学製品やガラスや金属のゴミがキラリと光る。それが実によく目立つのだ。ここに来て、そんなゴミをずいぶん拾い続けた。

あるとき、そのゴミ拾いに汚れた手を沢水で洗っているとき「水がそのくすんだ心さえ浄化してくれる」という感覚を持った。また、火を焚くことで、同様に家の中が浄化されるのを感じた。

人の生活の中で不可欠な「水」と「火」が、近代化の中で、その源流の感覚が人には見えず、お金で買うものになってしまっている。しかし、その水と火は、人間の精神性に重要な役割を果たしている。と、このアトリエの生活のなかで感じ始めている。

神道では「禊(みそぎ)」という概念があり、仏教においては「護摩(ごま)を焚く」といい、火を重要な宗教行事に使う。日常で沢水を使い、森からの木を焚いて炊事をしていると、そんな祈りの感覚さえ湧いてくるのだった。

水(川のみなもと)も火(薪)も、森からやってくる。日本は森の国であり、僕らの文化の源泉が森にあることを、いまこのアトリエであらためて想う。■